OSSで実現する効率化・コスト削減

分散トレーシングOSS導入によるマイクロサービス運用効率化と問題特定コスト削減事例

Tags: 分散トレーシング, APM, マイクロサービス, オブザーバビリティ, 運用効率化, コスト削減, Jaeger, OpenTelemetry

マイクロサービス化がもたらす運用上の課題と効率化の必要性

多くの組織でシステムのマイクロサービス化が進んでいます。これにより、開発の俊敏性やサービスの独立性が向上する一方で、システム全体の複雑性は増大します。特に、一つのリクエストが複数のサービスを跨る場合、どのサービスで遅延やエラーが発生しているのかを特定することが困難になりがちです。従来のモノリシックなシステムやシンプルな構成では、個別のログやメトリクスである程度の問題特定が可能でしたが、マイクロサービス環境ではサービス間の連携が不可視になり、問題調査に多大な時間と労力を要することが運用上の大きな課題となります。これは、結果として運用コストの増加、障害復旧時間の長期化(MTTRの悪化)、そして開発リソースが運用保守に偏るという非効率性を招きます。

このような背景から、当社ではマイクロサービス環境における運用効率化とコスト削減を目指し、システム全体の可観測性向上を重要な経営課題として捉えました。特に、サービス間の連携を可視化し、リクエストのトレーシングを可能にする仕組みの導入が急務であると判断しました。

導入前の状況:問題特定にかかる運用コストの増大

OSS導入前は、各マイクロサービスごとに基本的なログ収集とメトリクス監視(Prometheus + Grafana)は行っていました。しかし、ユーザーからの「レスポンスが遅い」といった問い合わせや、特定のトランザクションが失敗した場合、どのサービスが原因かを特定するには、関連する可能性のある複数のサービスのログを収集し、タイムスタンプなどを手がかりに手動で相関分析を行う必要がありました。

この作業は非常に属人的で、システム全体を熟知したベテランエンジニアでも数時間を要することが常態化していました。サービスが増えるにつれて調査対象も広がり、調査時間は増加の一途をたどっていました。また、障害発生時には、問題特定に時間を要するほどビジネスへの影響が大きくなるため、運用のプレッシャーも増していました。この非効率な問題特定プロセスが、運用チームのリソースを圧迫し、新たな機能開発や改善に割くべき時間を奪っている状況でした。

導入の意思決定とOSS選定プロセス

運用課題を解決し、効率化・コスト削減を実現するための解決策として、「分散トレーシング」システムの導入を検討しました。分散トレーシングにより、システムを流れる単一のリクエストが各サービスをどのように経由し、各サービスでどれくらいの時間を消費しているかを追跡・可視化できます。

導入にあたり、商用製品とOSSを比較検討しました。商用製品はサポートや導入の手軽さというメリットがある一方、高額なライセンス費用や従量課金によるコスト増加が懸念されました。特に、トレーシングデータはデータ量が非常に多くなる傾向にあるため、データ量に応じた課金体系は将来的なコスト予測を困難にする可能性がありました。

一方、OSSにはライセンス費用がかからないという大きなメリットがあります。分散トレーシングの分野では、JaegerやZipkinなどが広く利用されており、成熟度も高いと判断しました。これらのOSSは、OpenTracingやOpenTelemetryといった標準仕様にも対応しており、将来的な拡張性や他のツールとの連携も期待できます。懸念点としては、自社での構築・運用スキルが必要になること、コミュニティベースのサポートに依存することでした。しかし、当社の技術力を鑑みれば、これらの懸念点は克服可能であると判断しました。

最終的に、初期投資と運用コストを最小限に抑えつつ、高度な可観測性を実現するために、OSSの分散トレーシングシステムを導入する意思決定をしました。具体的な選定にあたっては、以下の点を評価し、Jaegerを主軸に導入を進めることとしました。

具体的な導入と活用方法

Jaegerの導入は、Kubernetesクラスター上にHelm Chartを使用してデプロイすることから開始しました。Collector, Agent, Query Service, Storage (CassandraまたはElasticsearch) といったコンポーネントを適切に構成しました。ストレージには、既存のログ基盤で利用していたElasticsearchを拡張して利用することで、運用コンポーネントを増やさず、コストを抑える判断をしました。

次に、各マイクロサービスにトレーシング機能を組み込みました。ここでは、OpenTelemetry SDKを利用することを基本方針としました。各サービスは起動時にTracerを初期化し、外部サービス呼び出しやDBアクセスなどの重要な処理の開始・終了時にSpanを作成・終了するようにコードを修正しました。HTTPヘッダーなどを介してSpan Contextを適切に伝播させるための実装も行いました。既存サービスへの組み込みは改修が必要となりましたが、新しいサービスについては開発標準として組み込むことで、導入コストを最小限に抑えました。

さらに、トレーシングデータ量のコントロールのためにサンプリング戦略を導入しました。全てのトランザクションを追跡するとデータ量が膨大になり、ストレージや処理系の負荷が高まるため、初期段階では確率的サンプリング(例えば1%のトラフィックのみを追跡)を採用しました。問題発生時には、特定のユーザーやリクエストに対する追跡を有効化する機能も開発しました。

導入後の活用としては、Jaeger UIを通じて特定のリクエストのトレーシングデータを検索し、どのサービスで処理が遅延しているか、どのサービス呼び出しでエラーが発生しているかを視覚的に確認できるようになりました。また、サービス間の依存関係マップを生成し、システムの全体像や影響範囲の把握にも役立てています。

導入によって得られた成果:運用コストの大幅削減

OSS分散トレーシングシステムの導入により、以下のような顕著な成果を得ることができました。

定量的なコスト削減としては、主に運用チームの工数削減が直接的なメリットとなりました。例えば、月間100時間の問題調査時間が30時間に削減された場合、運用メンバーの単価にもよりますが、年間数百万円〜数千万円規模の人件費コスト削減効果が見込めます。また、MTTRの短縮は、ビジネス機会損失の低減という形で間接的なコスト削減、あるいは売上維持・向上に貢献しています。

直面した課題と克服

導入プロセスではいくつかの課題に直面しました。

  1. アプリケーションへの組み込み負荷: 既存のマイクロサービス全てにOpenTelemetry SDKを組み込む作業は、サービス数が多いほど工数がかかりました。これに対しては、影響度の大きい主要サービスから優先的に導入を進め、段階的に適用範囲を広げる戦略を取りました。また、共通ライブラリを作成し、開発チームが容易に組み込めるようにしました。
  2. トレーシングデータの増大とストレージコスト: サンプリングを導入したものの、データ量が予想以上に増大し、Elasticsearchのストレージコストが増加する懸念が生じました。これについては、サンプリング率のチューニングを継続的に行い、必要性の低いトレーシングデータは早期に削除するライフサイクルポリシーを導入することで対応しました。将来的には、よりコスト効率の良いストレージの検討も視野に入れています。
  3. 開発チームへの啓蒙と標準化: トレーシングの重要性やOpenTelemetryの使い方について、全開発チームへの啓蒙と標準化が必要でした。社内勉強会の実施や、トレーシング導入を必須とする開発ガイドラインの策定により、チーム全体のスキルアップと意識向上を図りました。
  4. 運用体制の構築: Jaeger自体の運用(コンポーネントの監視、アップデート、スケーリングなど)に関する新たなスキルと体制が必要となりました。これについては、既存の監視・アラートシステムに統合し、少数の専任メンバーが担当する形で体制を構築しました。

これらの課題に対し、技術的な検討と組織的な取り組みを組み合わせることで克服を進めることができました。

まとめと今後の展望

OSS分散トレーシングシステム(Jaeger/OpenTelemetry)の導入は、マイクロサービス環境における運用効率化とコスト削減を実現する上で非常に有効な手段でした。問題特定時間の劇的な短縮は、運用チームの負担を軽減し、より価値の高い業務にリソースをシフトすることを可能にしました。これは直接的な人件費コスト削減に加え、開発速度向上やシステム安定性向上という間接的なメリットをもたらしています。

この事例から得られる教訓は、マイクロサービスのような分散システムにおいては、個別のコンポーネント監視だけでなく、システム全体を横断する可観測性(特にトレーシング)の確保が、効率的で持続可能な運用には不可欠であるということです。そして、OSSはこの高度な可観測性を、ライセンスコストを抑えつつ実現するための強力な選択肢となり得ます。

今後は、OpenTelemetryの活用をさらに深め、メトリクスやログとの相関分析を強化することで、より統合的なオブザーバビリティ基盤を構築していく予定です。また、AI/MLを活用した異常検知や予兆検知への応用も視野に入れており、さらなる運用効率化とコスト最適化を目指してまいります。他のマイクロサービス運用に課題を抱える組織にとって、本事例がOSSを活用した解決策の一つとして参考になれば幸いです。